啐啄同時、相場は間尺に合うか

僧、鏡清に問う、学人啐す、請う師、啄せよ
清云く、還って活くることを得るや
僧云く、もし活せずんば、人に怪笑せられん
清云く、また是れ草裏の漢

『碧巌録*1』より

堅っ苦しいが頭を整理するため、禅の思想から翻然大悟として得た短期の相場観を記す。

さて、市場参加者の中には時折こう云う者がいる。曰く「難しい相場だ」「楽勝だ」あるいは「方向性に乏しい」と。同じ相場を評しているにも関わらず、その言辞は三者三様である。それでは、相場は一つであるのに、同時にそれは三つでありえるのか。

先ずは眼前に一幅の絵画を思い浮かべてみよう。その絵の美醜は個々人の感性に由来するといえば、全くもってその通り。また、言わずもがな美醜を正確に計測することのできる定規はこの世にない。一方で、ある絵画を一定数まで評価するという様に想像を広げれば、美醜のスケールが明らかになる。つまり、絵画Aは200/1000が美しいと答え、800がそうではないと答えたといった具合にだ。万人が愛する名作といった極端な例を考えれば、絵画における美しさや醜さを左右する要素を抽出できるかもしれない。あくまでそれは共通項であって、万能の指標ではない。この点に注意すれば、朧気ながらも絵画には美醜が先天的に備わっていると見做すことが出来る。その美醜を司る要素のちぎり絵が個々の絵画ということになる。

同様に、相場についても思考実験してみよう。今度は美醜の尺度を難易度として、相場ごとにそのスケールの濃淡が浮かび上がるところまでは大した違いはあるまい。つまり、相場が個々人が認識する難易度に立脚した絵画だとすれば、同時にそれは三つでありえると言えよう。次いで、その易い難いを決定し得る共通項を引き出そうとすれば、思いがけず躓くこととなる。ある絵画の美醜を司る個別の要素は凡そ一意に固定される。ある絵画は美要素Aが強い、Bが弱い・・・といった具合に。しかし、相場というのは時々で千変万化するため、難易もそれに連動する。確かに、微視的に相場の難易を明らかに出来ようが、それは実際的ではない。例えば、寄付きから10秒後までの相場の難易を明らかにしたとしても、高速取引する機械でなければどうしようもあるまい。それでは、取引主体が機械であれ人間であれ、意味がある範囲に限定するとどうか。「ある日の東京株式市場は中央銀行の発表を好感・・・、10時発表の統計を受け・・・大幅続伸、相場の難易度は"大幅易"だった」としよう。この場合、"易さ"の本質たる要因は政策や統計の発表自体と、その予想の確度となろうか。おや、ここに来て絵画と相場とでは、観測点を限定するだけで、その程度の違いしか無いのかと早合点してはならない。

よくよく考えると、意味のある視点という限定を置いて獲得された難易の要因というのは後天的にのみ発見され得るのであって、相場と対峙する瞬間においてそれは無秩序に形成される値動きが暗示する僅かな断片に過ぎず、その全体像を伺い知ることも適用することも遡及的にしかなされ得ない。換言すれば、投資家はそれ自体に難易の要因が有るにも関わらず、それが無いという逆説的な認識でしか相場を捉えることができない。相場という特殊な鑑賞会で見られる絵画を前にして、投資家は審美眼を失う。この点で、元々あった本質的要素を直に感知出来る絵画とで、相場は質を異にする。それではこの難題、すなわち難易が靄がかった対象に臨む行為をどう解釈すべきか。その鍵を握るのが市場メカニズムだ。唐突に出てきた市場メカニズムとは如何なるものか。多数の取引主体が、それぞれの思惑を反映して為す売買注文の間で、値が合致した場合に価格が決定されるランダムな働き。時としてそれは、事後的に獲得された一般的な難易決定要因と協働し、あたかも合理的であるかの様に振る舞う。そうかと思えば、気分屋な素振りを見せたりする。

これで漸く安直なボヤキに対して感じた居心地の悪さの正体がはっきりとした。以上のように、本来相場では市場メカニズムが機能して不如意であるのに、その真の難易を弄しようなど高僧でもなければ傲慢なのだ。要するに、多くの者が感じていた難易とは、相場と投機家の呼応が生み出す偶然の産物(=収益=損失)への耽溺に過ぎず、眉に唾すべきなのだ。投資家が啐すれども、市場は啄するとは限らず。それでは、相場は間尺に合わないのか。親鳥と雛が、師僧と修行僧が以心伝心でなくてはならない様に、投資家は相場と適切な距離を保たねばならない。その紐帯を成すのが相場観であり、それには難易も正誤もない。逆神と当たり屋を比較すれば自ずから明らかだ。その陶冶には、極限まで理論で詰め、なお大胆な感性でもって相場と問答し続けるすより他ない。


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